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第八話 建設当時世界一の高さを誇った2本の煙突

2019年04月02日

明治期の近代化以降に煙突は数多く作られたようです。しかし、日本国内の近代的煙突として、当時世界一の高さを誇った有名な煙突は、大正初期に造られた次の2本ではないでしょうか。

 

①日立鉱山の大煙突 (大正4年)

高さ155.7m、完成当時は世界一の高さを誇りました。

1993(平成5)年2月19日に台風の影響で倒壊し、現在は1/3の高さです。日立という工業都市にあって企業と地域との共存共栄のシンボルであった為、市民は78歳と2カ月の寿命を非常に惜しんだようです。

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小坂鉱山(秋田県)の再建に成功した久原房之助(くはらふさのすけ)氏が、経営不振で苦しんでいた茨城県の赤沢銅山を1905(明治38)年に買収し、屈指の銅鉱山・製錬所に育て上げたのが日立鉱山だそうです。

 

最新式の探鉱、削岩技術、製錬法の採用などで創業10年足らずで有力鉱山会社に成長したようです。1910(明治43)年には初代工作課長の小平浪平(おだいらなみへい)(日立製作所創業者)の進言で日立製作所の起源となる電気機械製作の工場も造られました。

 

しかし、銅製錬で発生する亜硫酸ガスが地元で大きな問題となりました。特に、豆やタバコは煙に弱く、周辺住民との共生を重視していた同社は損害賠償に応じていたものの事態は一向に改善しなかったそうです。

 

そこで久原氏は「思い切って高い煙突を造り、上空で拡散させたら」と発想を転換。陸軍に人を派遣して係留気球の研究をさせ、どのくらいの高さなら煙が上昇気流に乗って拡散するかを調査させたようです。

 

建設費は当時の金額で30万円(今の貨幣価値で9億1千5百万円)。大煙突の効果は期待できないという反対論も社内では出そうですが、久原氏は「この大煙突は日本の鉱業発達のための一試験台として建設するのだ」と譲らず、1914(大正3)年建設に着手しました。

 

寺の跡に作った製錬施設の裏手の山の斜面、海抜325メートルの地点。鉄筋コンクリート製で高さは155.7メートルあり、当時、米国モンタナ州の製錬所の煉瓦(れんが)煙突152メートルをしのぎ世界一の高さを誇りました。

 

コンクリートミキサー車などなかった時代に、3万本にもなる丸太と5万4000把(たば)の棕櫚縄(しゅろなわ)で作った足場で延べ3万6000人の人力を動員してコンクリートをこね、注入していく大掛かりな作業だったにもかかわらず、着工後わずか9カ月足らずで完成して、翌1915(大正4)年の3月には稼働したそうです。

 

同時に製錬所の周囲10キロメートルに設置した観測所で気象をチェック、風向きなどで煙害が悪化しそうになると操業を大幅に抑えるなど煙害防止に努め効果を上げたようです。

 

現在でもPM2.5に苦しむ国もある中、世界的に見ても、かなり先進的な取り組みだったと言えそうです。

 

戦後の1972(昭和47)年になると、密閉型の自溶炉を採用、亜硫酸ガスは全量硫酸として取り出し、無公害化を達成したそうです。

 

日立鉱山は1981(昭和56)年に閉山しましたが、大煙突建設のころ、製錬所の周囲は禿山(はげやま)だったようですが、1000万本の植林事業が実を結び、大島桜とヤシャブシを中心にした木々に覆われて、低くなった「大煙突」を取り囲んでいる姿が見られます。

 

 

②日本鉱業佐賀関製錬所の大煙突 (大正5年)

現パンパシフィックカッパー社。高さ167.6m、これも当時は日立煙突を

抜いて世界一の高さでした。

 

パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B7%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC%E4%BD%90%E8%B3%80%E9%96%A2%E8%A3%BD%E9%8C%AC%E6%89%80

 

明治時代の佐賀関鉱山では銅の精錬が行われていましたが、1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて煙害により農作物が枯死したことが問題となり、操業が休止されました。明治30年代初めに再開が計画されたものの、住民による反対運動が起き、1900年(明治33年)に福岡鉱山監督署が精錬場の設置を不許可とする指令を出したため、再開は実現しなかったようです。

 

その後、大正時代に入ると、久原鉱業株式会社(後の日本鉱業)が佐賀関鉱山を買収し、1916年(大正5年)に佐賀関鉱山附属製錬所(後の日本鉱業佐賀関製錬所)を開設しました。

 

その際、煙害を防止するために高い煙突を建設することが計画され、高さ167.6m、下部の直径約29m、上部の直径約8mの鉄筋コンクリート構造の第一大煙突が1916年(大正5年)12月に完成。翌1月に操業を開始しました。

 

この煙突は完成当時、日立鉱山の大煙突(高さ155.7m)をも抜き、世界一の高さを誇ったものの、約1年後の1917年(大正6年)11月には米国ワシントン州の製錬所の煙突(高さ174m)に抜かれることとなりました。しかし、その後も「東洋一の大煙突」、「関の大煙突」と呼ばれ長らく佐賀関地区のシンボルとして親しまれました。

 

1972年(昭和47年)には、高さ約200mの第二大煙突が完成し、2本の煙突が並び立つ姿が見られました。

 

佐賀関製錬所は、1992年(平成4年)11月に、日本鉱業が設立した日鉱金属に譲渡され、2006年(平成18年)には日鉱金属と三井金属鉱業が共同で設立したパンパシフィック・カッパーの子会社の日鉱製錬に継承されました。2010年(平成22年)4月1日にパンパシフィック・カッパーが日鉱製錬を吸収合併したことにより、パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所となりました。

 

2012年(平成24年)9月、建設から100年近くが過ぎ老朽化が進んでいた第一大煙突について、崩壊の危険もあることから、解体・撤去を行うことが公表され。解体工事は同年10月から行われ、2013年(平成25年)5月末に完工し、跡地には、記念として高さ1.5m部分までが残されています。解体後には第二大煙突に排煙機能が集約され、製錬所の操業は続けられています。

 

このように、日本の工業煙突は、工業化のシンボルであると同時に、住民との共生のシンボルでもあったと言えそうです。

 

現在の高さ日本一の煙突は、東京電力鹿島火力発電所の煙突で、高さ231mです。街中の煙突としては、東京都豊島区上池袋にある東京都豊島清掃工場の煙突で、高さ210mです。

 

因みに、現在世界一の高さを誇る煙突は、高さ419.7 mのザフスタンのエキバストス第二発電所煙突。2位が381 mのカナダのインコ・スーパースタック。3位が371 mのアメリカ合衆国のホーマーシティ発電所となります。